オープニング集会/公開記者会見 フォーラムレポート 今井一(ジャーナリスト、[国民投票/住民投票] 情報室事務局長)

Port B Opening Rally / Press conference Forum Report Hajime Imai (Journalist, referendum campaigner)

震災後ちょうど7ヶ月目となった10月11日。この日に設定された初日をオープニング集会であると同時に公開記者会見としたのは、鑑賞者が参加し、それぞれの体験を自らが発信していくことも含めて作品とするPort Bの作品の特徴を反映している。本プロジェクトにおいても、演者や舞台といった所謂演劇的設えは存在せず、鑑賞者自身による「国民投票」のプロセスの体験を演劇プロジェクトとして提示する。本集会/記者会見は、プロジェクトを自らの集大成とも位置づける高山明氏(Port B主宰、演出家)によるコンセプトの説明に始まり、今井一氏(ジャーナリスト、市民グループ[みんなで決めよう「原発」国民投票]事務局長)による一般的な国民投票についてのレクチャー、そして両氏による対話から今回のテーマである「国民投票」の本質に迫る議論に導かれていった。演劇として、政治的題材として、言論の場として、さまざまな観点から興味を持ってその場に居合わせた多様な客層が生み出す熱気が会場である豊島公会堂全体に満ちた、濃密な二時間で本プロジェクトは幕を開けた。

「桜の樹の下には死体が埋まっている*1」 高山明

震災からちょうど1ヶ月後のある夜、公園に咲く満開の桜を見ながら、高山氏はそんな一節を思い出した。その個人的な体験が、今回のプロジェクトを始めるきっかけとなったという。(以下、高山氏の発言内容より)

震災後に流れてくる情報を見ているうちに、誤解を恐れずに言うと、どこからか独裁的な力が出てきて事態を全て収束させることを求めたくなる気持ちを持った。非常事態になった時に、主権が誰なのか、わたしたちは誰なのかという意思をどう決定するかがここまで露骨に問題になるのかということを体感した。自分の所在が置いてきぼりになっていることをあれほど自覚したことはそれまでなかった。

そして桜の樹を見たとき、私たち生きている者だけでなく、震災で亡くなられた方々も含め死者の意思にも耳を傾けるようなアーキテクチャを作れたならば、演劇が今の現実に対応する意義を持つのではないかと感じた。

もう一つのきっかけとなったのは、一度も使われないまま国民投票によって廃炉になったツヴェンテンドルフ原発を訪れたこと。神殿のような巨大な器に驚愕した。色んな人の夢が詰まっていたはずのものが、ある日突然国民投票により時間を止められたままそこにあるのを目撃して、日本で未だ実現されていない国民投票をツヴェンテンドルフ原発の例を参照して実施することを使命のように感じた。ところが日本に帰ると全く空気が違う。まるで何事もなかったかのような空気がそこにはあった。記者の反応もヨーロッパとは打って変わって冷たい。その状況に演劇の政治性とは何かということを改めて考えさせられた。

ヨーロッパの演劇には、政治的な問題を扱わないといけない社会的義務のようなものがある。しかし、演劇は政治的でなければならないと言った時に、そこで扱われている政治は言わば舞台上でアリバイとして使われており、観客が美的または面白いものとして体験すること自体がガス抜きあるいは虚勢装置として機能している。そう考えると、日本というこれほど政治的なものが扱われない状況は、逆に政治的なことができる可能性でもあるのではないかと思うようになった。

ツヴェンテンドルフ原発
写真:ツヴェンテンドルフ原発
そんな中、ハンス=ティース・レーマン(演劇学者)の著書の中に以下のようなことが書かれているのを読み返した。

「政治の境界は時間である。政治は生きた人間を統治することはできるが、死んだ者、そしてまだ生まれていない者に関しては統治することはできない。」

これを読んだときに、自分がそれまで直接的な意味での政治あるいは同時代性に同化しすぎていたことに気づかされた。所謂「政治的」なものを扱っていても、本当の意味では政治的にはならないのではないか。政治的でないものが、だからこそ政治の力が及ばない境界を開いてしまうことがある。その機能こそが演劇が政治的に成りうる唯一の可能性ではないか。演劇が政治的になるためには、一般的な意味での「政治的」になってはいけないのではないかと考えた。「政治的」と呼ばれるものにぽっかりと空いてしまった亀裂のようなものにどう自分がコンタクトすれば良いか。そしてそこでどういった行為が可能になるか。そのことを考え始めた時に、最初に話した桜の樹を見て考えたことに戻ってきた。桜の樹の下に埋まった死者の声に耳を傾ける演劇的仕組みを作ろう、と。

具体的には、今回のプロジェクトでは「わたしたちの声」というものを採集する作業を行おうと思い、以下の3つの声を集めることにした。
  1. 東京と福島の中学生の声
  2. フォーラムに招く一人一人のゲストの声
  3. 「投票」から掬い上げるわたしたちの声

死者については、その声を実際に代弁するのではなく、死者を想起できる場所や時間をつくれたらと思い、キャラバンカーが巡回する土地にはそういった場所も含めている。1ヶ月に渡るプロセス全体が「わたしたちの声とは何なのか」という問いであり、そこで集められる、あるいはそこに響く声が、もしかしたら「わたしたちの声」かもしれないという意識を持って、演劇的なアーキテクチャをつくろうと思う。それが今自分にできる演劇であり、今後もそういった方向で演劇を続けていきたいと考えている。
(*1) 梶井基次郎「桜の樹の下には」



政治活動としての国民投票 今井一

今日は新潟県巻町から会場に到着したという今井氏。巻町は、15年前に日本で最初の原発についての住民投票が行われた町。以降、日本では401件の住民投票が行われている。全ての道府県の自治体で行われてきた住民投票だが、東京都の自治体だけが一度も経験していない。まして世界で1150件を超えて実施されてきた国民投票だが、日本では一度も実現していない。

国民投票と選挙との決定的な違いは、自分たちに代わって重要な事柄を決定する代理人を選ぶのが選挙で、国民投票は自分たちの一票で直接事柄について決めるということ。日本では3年前にようやく憲法改正限定で国民投票についてのルールが出来た。しかし、「原発」にせよ「安保」にせよ「死刑制度」にせよ改憲以外の重要な事柄を国民投票にかけるには、一般的案件を対象とする国民投票法を制定しなければならない。そして、それは現行憲法下では、投票結果が法的拘束力を持たない諮問型として実施されることになる。かつて1980年にスウェーデンが行なった「原発」国民投票のように。

「道のりは厳しいが、主権者である国民が望んでいるのだから、代理人である国会議員は国民投票制度を導入しなければならない」と今井氏は主張する。
      


高山氏が考える現実への演劇的応答としての「Referendum―国民投票プロジェクト」と、今井氏が主導する直接的な政治活動としての「原発国民投票」。方法や形式は違えども互いに共通する問題意識、そしてそれぞれの活動のプロセスが抽出する「わたしたちの声」について対話を続けた。

YES/NOではなく、プロセスとしての国民投票

高山 今井さんの著書『住民投票』で、新潟県巻町の1996年の原発についての住民投票では、さまざまな議論や寄り合いをひたすら繰り返し、勉強の機会を作り、そういったプロセスの中で合意が形成されていったことを学びました。また、住民投票はあくまでその結果であるようにも感じました。実際の原発に対する是非が決まるまでのプロセスはどういったものだったのでしょうか?

今井 住民投票を行う際に、情報公開も議論もないのに投票をするのは非常に危険であるという人がよくいます。実はそこに落とし穴があって、これまで取材してきたさまざまな例を見ると、住民投票をやるということになって初めて、それまで隠されてきた情報をいくつも明るみに出すことができたし、色んな嘘を暴くことができました。また、賛否両派による連日の新聞折り込み広告は非常に水準が高く、情緒的ではなく数字を駆使し、原発が町にもたらす影響について非常に冷静に議論が行われていました。それから、巻町でも刈羽村でも住民投票の際に開催された公開討論では、現地の会場に最高水準の有識者が集められ、濃密な議論が展開されました。そういったプロセスを経て「神話」が崩されていったのです。一方、それをやらなかった福島では「神話」がずっと生き続け、あのような悲劇をもらしたと私は考えています。


西洋とは違う民主主義のあり方

高山 少し前に宮本常一の「忘れられた日本人」を改めて読み、寄り合いという考え方に着目しました。村の寄り合い所に村の人たちが集まってきて、ある議題について直接的じゃなくても自分の身近にある例を持ち寄ってきて話す。それを延々と続けることで、最終的に何かしらの決定事項が決まっている。それを読んだときに、西洋的な民主主義というと敵/味方が確実に分かれる形を取るけれども、別の民主主義の形もあるのかなと思いました。同じことを巻町の住民投票について読んだときに感じたのです。

今井 世界の国民投票でも原発だけでなくさまざまな事柄が扱われてきましたが、結局問われているのは自分の生き方です。色んな情報が入ってきますが、最後は「自分たちはどう生きていくべきなのか」という価値観や人生観で判断せざるをえない。結果として「賛成か、反対か」と言われたら二元論は危険だという批判もありますが、それまでに色々と考えるプロセスがあるということ、そしてもう一つ重要なのは、世界で行われている「原発国民投票」はそんなに単純なものではないということを分かってほしいと思います。
例えば1987年にイタリアで行われた国民投票はとても画期的なものでした。原発の立地先には莫大な交付金が出るのが通例です。実際に予算の多くを交付金に頼っている自治体も多くあります。イタリアでは、その原発の交付金制度を廃止するかどうかの投票を行いました。原発の是非を直接問うものではなかったのです。原発を建てたり受け入れたりするのは自由だが、交付金は廃止すると。その是非を問うものでした。それに対し、投票者の79.7%が廃止賛成と答えたのです。これによってイタリアで原発を受け入れる自治体はなくなりました。

私は反原発を訴えている訳ではありません。市民自治や国民主権の観点から、こんな重要な課題を首相なり知事なりたった一人の人間が決めてしまっていいのか、ということを訴えているのです。もう見て見ぬ振りはできない段階に来ています。わたしたちには関わっていかなければいけない権利と責任があるのです。


主権とは何か

高山 先ほど「主権」という言葉が出ました。冒頭でも触れましたが、震災後の混乱の中で、正直なところ僕の中では独裁を求める気持ちが芽生えてしまいました。日本の主権は何なのだろうと考えたときに、もうどうなってもいいからトップの意志で何かを決定してほしいとすら思いました。その時、「わたしたち」というものが、主権者であるにも関わらず、置いてきぼりになっていることに気づきました。そのことが一番警戒しなければならない事態だと感じました。そこで国民投票という手段が、自分の声を積極的に上げる方法として必要だと思ったのです。

今井 高山さんのその観点は非常に鋭いと思います。確かに今、多少強引でも良いから強力な人を求めがちになっている気運があるのは事実です。そこで紹介したいのですが、戦後わずか2年間だけ文部省が出した社会科の副読本「民主主義」には以下のようなことが書かれています。
民主主義における人間への信頼は、英雄や超人や非凡人に対してささげる信頼であるよりも、むしろ、ここに住み、そこに働いている「普通人」に対する信頼である。
美化をしてはいけないですが、基本的には自分たちと同じ市民を信用していかないといけない。それを信じないでごく一部の超人的な人に頼ろうとすると、必ず元来た道に戻ることになってしまうとわたしは思っています。日本で本当の民主主義を作るためには、国民投票制度の導入が不可欠なのです。多くの日本人の特徴ですが、自分では直接関わったり責任を取らないくせに、人一倍文句を言います。今度の「原発」をめぐる反応もそうですよね。これでは子どもです。国民投票をやると決めて、やることによって賢くなっていくしかないのです。そして責任も自分たちで引き取っていく。それが求められています。

高山 そういう意味で、プロセスとしての国民投票に魅力を感じています。プロセスは「審判」や「審議」と訳されますが、国民投票自体が何かを考えるプロセスになっていることが興味深いと思います。今回のプロジェクトを始めるにあたってどうしても考えざるをえなかった点は、「わたしたちの声」を一つ一つ集める僕らの「国民投票」自体は、現実的な効力を持ちません。けれどもプロセスを重視する点においては、それで良いと思いました。カール・シュミットという法学者は、個人の声を集めたところでそれは全体意思であって、一般意思ではないと言いました。しかし彼自身、民意を反映しているのはヒットラーだとして彼の活動を支持しました。そういった危険を冒すよりも、プロセスを重視する作業を徹底したいと考えたのです。最終日の11月11日にクロージング集会を予定しています。それについても今は白紙にしておいて、プロジェクトの主体は何かということを根っこのところから考えたいと思っています。主体を決めない寄り合いみたいなものになるのかもしれないし、そのこと自体を1ヶ月間で模索していきたいのです。

  


キャラバンカーで待ち受ける「わたしたちの声」を集める演劇的な「投票」の形は、決して実際の国民投票がもたらす結果のようにシンプルな回答を弾き出すものではない。

それでも当初、子供の声をインタビューすることでわたしたちが耳を澄ますべき未来の夢が見えるのではないかと高山氏は考えていた。実際に撮り始めてみて、そう簡単にはいかないことが分かった。中学生を選んだのは、自分自身が一番揺れていた時期に出会いたいという気持ちから。しかし、彼らから自分の夢や希望、言葉を聞くのは容易ではなかった。子供というのは透明な存在である。特に残酷なのは、彼らが何らかのものに憑衣されていることが見えること。彼らは鏡で、突きつけられるのは自分の姿だった―。

質疑応答の場面でも、国民投票のさまざまな側面について白熱した議論が展開された。最後に「このプロジェクトは、国民投票への参画を促すものではない。」と高山氏は締めくくった。演劇の観点からプロジェクトを政治的に有効にするために、まず政治から距離を取った独自の「国民投票」を行う。直接的な政治運動には結びつけず、そうでないものを拾っていくこと。そうすることにより政治の力が及ばないところにどう回路を作れるか、ということを「Referendum―国民投票プロジェクト」は演劇として追求していく。


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